ご挨拶

「脳卒中診療ビッグバン」

峰松先生の写真

国立循環器病研究センター 名誉院長

峰松 一夫

国立循環器病センター(国循)が構想され、創設された1960〜70年代当時の国民死因の第1位は脳卒中であった。脳卒中診療部門のない国循の創設はあり得なかった。これが、National Cardiovascular Centerと英文表記されながらも、国立心臓血管病センターとならなかった最大の理由であろう。で、当時の国内脳卒中研究のメッカ、九州大学(勝木司馬之助先生)と慶應大学(相澤豊三先生)から2人の有望な若手医師(40歳代前半)が国循に送り込まれ、現在の脳血管内科と脳神経内科の創始者となった。山口武典先生と澤田徹先生である。

当時、国内の大半の地域では、「脳卒中患者は脳神経外科医が診療する」のが常識であった。関西もしかりである。紹介状にはほとんど「脳外科宛」と書かれていた。山口先生の盟友とも言える菊池晴彦先生(国循名誉総長、京大名誉教授)や早川徹先生(阪大名誉教授)が脳神経外科医であることは偶然ではない。もっとも、山口先生の考え方、行動パターンが、かなり脳外科医的であったことが本当の理由かもしれない。その後の30年間は、「脳卒中患者は脳血管内科医/神経内科医が診療する」のを常識とするための戦いであった。

1977年に大学を卒業したばかりの私は、「とにかく人間の脳卒中を勉強したい」との思いで、尾前照雄九大第二内科教授(当時)に無理にお願いし、創設間もない国循山口グループを紹介してもらった(1979年)。3年間のレジデントが終われば九州に帰るつもりであったが、どこでどう間違ったのか今日まで国循暮らしが続いている。当初は、基幹病院にCTが普及し始めたばかりで、血管評価は手作りカテーテルか頸動脈直接穿刺による脳血管撮影しか手段がなかった。急性期治療薬としては、脳浮腫治療のための高浸透圧利尿薬が利用されていた程度で、アスピリンの脳梗塞再発防止効果が話題になり始めた頃であった。ワルファリンは出血合併症率が高く、使用頻度は低かった。一方、開頭血腫除去術や血管バイパス術などの外科的治療は盛んで、「脳卒中=脳神経外科」が常識であったのも、当然かもしれない。

さて、レジデント1年目の夏休みに、いきなり教科書を分担執筆するように山口先生から指示された。テーマは「高血圧性脳症」であった。同じ頃、最先端治療と噂されていたバルビタール昏睡療法の専任担当者にも指名された。今なら絶対にあり得ない「1年目のレジデントに教科書執筆や、実験的臨床研究を任せる」という暴挙であった。脳卒中の診断・治療技術が未開拓で、臨床研究技術や倫理も未熟、何よりも大変な人手不足であったことが、その理由であろう。しかし、そうしたことが、その後の脳血管内科、脳血管障害研究室、米国留学と、楽しく、かつ充実した脳卒中屋人生のきっかけとなった。多くの後輩達も、山口先生からそれぞれのテーマを与えられ、発展のきっかけをつかんでいった。若い人たちの能力を信じ、また将来の医学・医療を支える人材として敬意を払い、人を育てることこそが、指導者に求められる条件である。

この30年間の、しかも数度にわたる脳卒中診断・治療技術の飛躍的進歩は、嘗て想像できなかったことである。まさに、脳卒中診療ビッグンバンといっても過言ではない。国循脳血管内科が、その進歩に大きな役割を果たしてきたことはまぎれもない事実である。自分自身を振り返っても、拡散強調画像とt-PAという2つの診断・治療武器の開発や普及に関与できたことは夢のようである。さらに、大勢の先輩、同僚、後輩、知人達に恵まれ、彼らと国内有数(いや世界有数)の脳卒中診療・研究ネットワークを築くことができたのも、幸せ以外の何物でもない。2010年の独立行政法人化に合わせて、国循の英文表記が、National Cerebral and Cardiovascular Centerに変更された。脳血管内科などのこれまでの業績が高く評価された結果と認識している。

脳卒中死亡率は劇的に低下したが、要介護者数は逆に増加し、再発におびえる脳卒中既往患者は数百万人規模にふくれあがっている。さらなる脳卒中診療の革命を追求しなければならない。また、脳卒中に戦いを挑む戦士達をもっと大勢に増やさなくてはならない。これらの意味で、国循脳血管内科現役・OBのネットワークとしての「脳卒中山峰会」の果たす役割は、今後益々重要になろう。これからの本研究会の発展が楽しみである。